ある日、印象派の”意味”を完全に理解した = 美術の授業への批判

 表題のことを説明する前に、残念ながら、つまらない自分語りをする必要がある。読者に私のセンスがいかに ”コモンセンス” であるかを理解させなければならないからである。

 

 

 幼い頃通っていた小学校には、原寸大のピカソの『ゲルニカ』の複製があった。だから最初に知った芸術家はピカソだった。

 このことは取り返しのつかない罪悪であると、今は断言できる。おそらくほとんどの大人にとっても理解し難いものを、最初に、教えることは、である。だって今でもまだピカソまでは理解できないのだから。

 

  ミケランジェロボッティチェリ、あるいはレオナルド・ダ・ヴィンチ

  あるいはルーベンス、あるいはフェルメール注1

 

 芸術鑑賞が趣味でもない私にとっても彼らの代表作は明らかに”良いもの”で、全くの無知だった中学生の私が初めて触れた時、もうすでに理解することができた。

 特にミケランジェロが好きだった。あえて歴史上最も素晴らしい芸術家を挙げるとすれば、少なくとも4割くらいの人は彼を挙げるんじゃないかと思う。それほど彼の作品がimpressiveと感じる事は、特筆することでもない ”コモンセンス” だと認識している。

 

 だが、多くの人がそうであるように、中学生の私にとって所謂芸術鑑賞は趣味にはならなかった。普通にアニメや映画を観たり、音楽を聴いたり、ゲームをしたりするのが趣味だった。

 それは私が大学生になっても変わることがなかった。大学では単位のために近代美術史を取ったこともあるが、全く関心が湧かなかった。

 

 それでも長い間に僅かには折に触れて、ミケランジェロの『ピエタ』や『ダビデ像』、フェルメールの『真珠の耳飾りの少女』、ボッティチェリの『プリマヴェーラ』(のデジタル画像)を見かけてはその都度、自分と同じ生き物が創作したとは思えぬその作品たちが、私にimpressしていたことを認めなければならないのだろう。そうでなければおかしいと、今は推し量ることができる。

 

 

本題

 

 さて、奴は突然に私のもとを訪れた。マネである。

 マネという画家について認識できていたことは、モネという画家がいて、名前が似ているということくらいだった。作品を見かけたことがないということはないだろう。未だに個別の作品名は分かっていないのだが。

 

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エドゥアール・マネフォリー・ベルジェールのバー』

 私は驚いた。彼の作品により中学生の私が初めて受けたimpressとは何か異なる種類でimpressされたのだった。

 驚いたのは、それだけではなく、それと同時に、ミケランジェロの自分の中のimpressivenessが薄れていることに気がついた事によるものだった。

 

 今更ながら、読者にはimpressの意味をおさらいしてもらいたい。

 

  1. 感動させる
  2. 印象づける

 

 大まかに分けてこの二つに翻訳されることが多い。しかしながら、日本人には少し異なる意味に思えるので、その違いを明文化してみよう。

 

  1. 内発的に人の心を動かさせる
  2. 外発的に他者により作られた印象を与える

 

 私にとってはミケランジェロは1. が主だった。だが1. は内発的であるが故に、心の中で初めて観た時のものを再現することができなければ色褪せていってしまう。

 

 察しの良い読者はマネが2. が主という主張になるだろうと気づいているだろう。2. はマネの印象・意図をそのまま受け取ることになる。1. が失われているが故に、たくさん2. が入り、心が満たされるようになる。

 まとめとしてこれを”印象”的な比喩表現にしてみると、「印象派は心の輸血である」といった感じだろうか。

 

 最後に『ゲルニカ』が何故、最初に教えるべきではないのか。一見、落書きに見えるから、というのも間違いではないが、そう単純ではない。美術鑑賞には美術史を学ぶことが必須だと言うことでもない。

 それは、人はまず内発的に美術の血を作る必要があるからである。注2ゲルニカ』は、明らかにピカソが観る人にゲルニカ爆撃についての印象を与えようとするものだから、そのimpressを内発的に受け取れる人は限られてしまう。

 印象派以後を理解するには時間をかけて血を失う必要があるから、教育としては早いうちに血を作ることが求められる。小学校・中学校・高校と、美術の授業はほとんど創作活動ばかりで鑑賞することはなかったように思う。

 だが、小・中学生にミケランジェロを鑑賞させ、高校生・大学生に印象派を鑑賞させなければ、いつまで経っても現代美術のコンテキストを理解する大人は増えることはないのだろう。

 ま、増えなくても別にいいのかもしれないが…。

(終)

 

注1) その後の展開のため、日本美術の人物は除いた

注2) もしかしたら、ごく稀に教育するまでもなく生まれつき美術の血が流れている人がいるのかもしれない。そういう人が美術のカリキュラムを作ったのだろうか。

 

 

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